系図rekizu

金ヶ崎の退き口

1570北陸

経過

元亀元年4月、織田信長は徳川家康とともに越前の朝倉義景を攻め、金ヶ崎城まで進出した。しかし同盟者の浅井長政の離反により挟撃の危機に陥り、信長は木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らを殿に残して朽木越えで京へ撤退した。秀吉の武名を高めた撤退戦として知られる。

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織田信長豊臣秀吉徳川家康朝倉義景浅井長政4/204/254/264/274/284/294/305月京より出陣越前攻めに従軍手筒山城を攻略金ヶ崎城開城朝倉景恒・退避救援軍を派遣織田から離反長政離反の報殿軍を命ず池田勝正・共同明智光秀・共同朽木越えで退却朽木元綱・先導松永久秀・交渉越前より撤退追撃防ぎ撤退京に帰還京に帰着信長は若狭方面へ向け京を出陣。名目は若狭攻めだったが、実際には朝倉義景の討伐を狙っていた。同盟する家康も軍勢を率いて参陣し、織田・徳川の連合軍として敦賀方面へと進撃していった。連合軍は敦賀郡へ侵攻し、朝倉方の堅城・手筒山城を猛攻の末わずか一日で陥落させた。続いて金ヶ崎城を攻囲。守将の朝倉景恒は抗しきれず開城し、織田軍は越前本国へ迫った本国の朝倉義景は敦賀方面の敗報を受け、救援の軍勢を差し向けて防戦の態勢を整えた。信長の妹婿である浅井長政が朝倉氏との旧誼を重んじて離反。織田軍は挟撃の危機に陥った。浅井離反の報が金ヶ崎の信長に届く。当初信長は虚報と疑ったが、続報により事実と確認した。信長は即時撤退を決断し殿軍を編成。木下秀吉が池田勝正・明智光秀らとともに金ヶ崎に残った。信長はわずかな供回りで湖西の朽木谷を抜けて撤退。領主朽木元綱の協力を得て京を目指した。家康の徳川勢も越前からの撤退行に加わり、朝倉勢の追撃をしのぎながら無事に帰還した殿軍の秀吉らは金ヶ崎城で朝倉勢の追撃を食い止め、損害を抑えつつ敦賀からの撤退に成功した。信長は朽木越えの強行軍を経て、供回りわずか十名ほどという少人数で京へ帰り着いたと伝わる。殿軍を全うした秀吉らも京に帰着。この撤退戦は秀吉の武功として名を高める契機となった。

登場人物