系図rekizu

山崎の戦い

1582年近畿戦国時代

経過

天正10年6月、織田信長を討った明智光秀と、備中から急行した羽柴秀吉が山城国山崎付近で激突した合戦。秀吉軍は大軍を集結させて光秀軍を破り、光秀の政権構想はわずか13日で崩壊した。

主要人物のライフラインと時系列で、出来事の経過を追えます。図の記法は下の凡例をご覧ください。

羽柴秀吉明智光秀羽柴軍明智軍織田信孝丹羽長秀6/26/46/66/9頃6/116/126/136/13夜6/14本能寺変報中国大返し討伐軍参加援軍要請筒井順慶・静観細川藤孝・応ぜず秀吉軍合流山崎へ布陣山崎で激突中川清秀・先鋒高山右近・共同光秀軍敗北斎藤利三・討死坂本へ退却安田国継・退避落命京を掌握備中高松城を攻めていた秀吉のもとへ、本能寺で信長が討たれたとの報が届いた。秀吉は毛利氏と講和を成立させ、急速に軍を京方面へ向けて移動させた。織田信孝らが秀吉側に加わり、光秀討伐のための軍勢が拡大した。光秀は近隣の武将へ協力を求めたが、十分な援軍を得られなかった。丹羽長秀ら織田家臣団が秀吉軍に合流し、討伐軍の態勢が整った。光秀は山崎周辺に軍を配置し、秀吉軍の進撃に備えて迎撃態勢を取った。羽柴軍は山崎付近で明智軍へ攻撃を開始し、激しい戦闘が展開された。秀吉軍の攻勢により明智軍は崩れ、光秀は勝龍寺城方面へ退却した。敗れた光秀は残兵をまとめて坂本城へ向かい、再起を図ろうとした。光秀は坂本城へ向かう途中、小栗栖付近で襲撃され命を落とした。秀吉は山崎の勝利後、京都周辺を制圧し織田家中での主導権を握った。

図の記法

  • 命令・攻撃・招請・合流(相手への働きかけ)
  • 変報・急報(知らせが届く)
  • 移動・出陣・要請(その人物自身の行動)
  • 討死・自害(以降そのライフラインは途切れる)
  • 人物(タップでその人物の系図へ)
  • 軍・勢(部隊単位のライフライン。幟旗つき)
  • 付随する人物と役割(先鋒・討死・静観 など)
陣営
  • 羽柴
  • 明智
  • 織田

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