系図rekizu
本能寺の変前後

備中高松城の水攻め

1582中国戦国時代

経過

天正10年、中国方面軍の羽柴秀吉が毛利方の境目の城・備中高松城を攻めた戦い。力攻めが難しい沼城に対し、秀吉は堤を築いて足守川の水を引き込む水攻めを敢行した。毛利輝元らの後詰も手を出せず、本能寺の変報が届くと城主清水宗治の切腹を条件に講和が成立した。

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織田信長羽柴秀吉清水宗治毛利軍安国寺恵瓊3月中旬4月中旬4月下旬5月上旬5月中旬5月下旬5月中旬5月6/3夜6/3〜46/46/4〜56/6姫路から出陣高松城を包囲降伏を勧告官兵衛・交渉堤防を築造官兵衛・先導蜂須賀正勝・共同水没籠城後詰に着陣毛利輝元・共同吉川元春・共同他1名信長に援軍要請先発を予告明智光秀・先鋒変報が到達講和交渉官兵衛・交渉湖上で切腹変報を確認小早川隆景・静観中国大返し中国方面軍を率いる秀吉が姫路を発し、宇喜多勢を加えて備中へ侵攻を開始した。秀吉軍約3万が毛利方の境目七城の要・高松城を包囲。周辺の支城を次々と攻略した。秀吉は備中一国を条件に開城を促したが、宗治は毛利への忠節を貫き拒絶した。沼沢地の城への力攻めを避け、約3kmの長堤を短期間で築いて足守川の水を引き込んだ梅雨の増水で城は湖上の孤島と化した。宗治ら約5千は水没する城内で籠城を続けた。毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の本軍が救援に到着したが、水に阻まれ手を出せなかった。毛利本軍の来援を受け、秀吉は信長へ出馬を要請。信長は自ら出陣する意向を示した。信長は光秀ら諸将に先発を命じたうえで自身の出馬を伝え、上洛して本能寺に入った。本能寺の変を知らせる密使を捕らえ、秀吉は信長横死を知る。情報を秘匿し講和を急いだ毛利外交僧の恵瓊が秀吉方と折衝。宗治切腹と領土画定を条件に和睦がまとまった。宗治は城兵の助命と引き換えに小舟の上で切腹。「浮世をば今こそ渡れ」の辞世を残した講和成立後に毛利方も信長の死を知ったが、吉川元春の追撃論を退けて和睦を維持した。毛利の動かぬことを見極めた秀吉は全軍を東へ返し、京をめざす強行軍を開始した。

登場人物