系図rekizu

長篠の戦い前後

1575三河戦国時代

経過

天正3年、武田勝頼は三河へ侵攻し奥平信昌の守る長篠城を包囲。織田信長・徳川家康の連合軍は設楽原に野戦築城して迎え撃ち、鳶ヶ巣山奇襲と大量の鉄砲で武田軍を壊滅させた。信玄以来の宿老を多く失った武田氏は、この敗戦を境に長い守勢へと転じた。

主要人物のライフラインと時系列で、出来事の経過を追えます。図の記法は下の凡例をご覧ください。

武田勝頼武田軍織田信長徳川家康酒井忠次奥平信昌鳥居強右衛門4月中旬4月5/15/13前後5/14夜5/145/165/185/205/20夜5/21早朝5/21朝5/215/21夕5月下旬6月三河侵攻開始内通事件が発覚長篠城を包囲長篠城総攻撃包囲網を脱出 ▸岡崎に着陣磔刑に処される設楽原に着陣決戦を決定 ▸別働隊を派遣鳶ヶ巣山攻略 ▸設楽原の決戦 ▸宿老相次ぎ討死山県昌景・討死馬場信春・討死他2名甲斐へ敗走岐阜へ帰還遠江で反攻勝頼は約1万5千を率いて甲府を進発し三河へ侵攻。当初は岡崎方面への進出を狙ったとされる。家臣大賀弥四郎の武田内通と岡崎引き渡しの企てが露見し処刑された。武田軍は目標を長篠城へ転じた。武田軍が奥平信昌の守る長篠城を包囲。城兵約5百は鉄砲と断崖の地形を頼みに籠城戦を開始した。武田軍は力攻めを繰り返し兵糧蔵も焼失。城は落城寸前となり、援軍要請の使者派遣が決まった。信長は約3万の軍と大量の鉄砲を率いて岐阜を発ち、岡崎で家康と合流。反攻の態勢が整った。帰路に捕らえられた強右衛門は城へ向かい援軍到来を叫んで磔にされた。城兵の士気は大いに上がった。連合軍約3万8千が設楽原に着陣し、連吾川西岸に馬防柵と土塁を三重に構築して決戦を誘った。酒井忠次献策の迂回奇襲を信長が採用。忠次率いる約4千が夜間に豊川南岸を大きく迂回した。山県昌景・馬場信春・内藤昌秀ら信玄以来の重臣が退却戦で相次いで討死し、軍の中核が失われた。勝頼はわずかな旗本に守られ戦場を離脱し信濃経由で甲斐へ敗走。武田軍の死者は1万前後とも伝わる。家康は奥三河の武田方拠点を接収し、信長は岐阜へ帰還。奥平信昌は籠城の功で厚く賞された。長篠の勝利を受け家康は遠江で反攻に転じ、二俣城など武田方拠点の攻略を進めた。武田氏は守勢に回った。

図の記法

  • 命令・攻撃・招請・合流(相手への働きかけ)
  • 変報・急報(知らせが届く)
  • 移動・出陣・要請(その人物自身の行動)
  • 討死・自害(以降そのライフラインは途切れる)
  • 人物(タップでその人物の系図へ)
  • 軍・勢(部隊単位のライフライン。幟旗つき)
  • 付随する人物と役割(先鋒・討死・静観 など)
  • 詳細 ▸サブ出来事の詳細図へリンク(タップで移動)
陣営
  • takeda
  • 織田
  • 徳川

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