系図rekizu

関ヶ原の戦い前後

1600中部安土桃山時代

経過

慶長5年、五大老筆頭の徳川家康と五奉行石田三成の対立は、会津征伐を引き金に天下分け目の戦へと発展した。西軍の挙兵から諸城の攻防、9月15日の関ヶ原本戦、そして戦後処理に至る約半年の流れを俯瞰する。

主要人物のライフラインと時系列で、出来事の経過を追えます。図の記法は下の凡例をご覧ください。

徳川家康徳川秀忠福島正則石田三成大谷吉継毛利輝元西軍勢上杉景勝真田昌幸4月6/167月上旬7/177/197/207/258/108月中旬8/239/19/69/79/149/159/189/2510/110月直江状と征伐決定 ▸会津へ出陣挙兵の密議三成挙兵 ▸ガラシャの死 ▸細川ガラシャ・自刃伏見城の戦い ▸鳥居元忠・討死田辺城の戦い幽斎・応ぜず小山評定 ▸大垣城入城清須に集結岐阜城の戦い ▸池田輝政・共同江戸を出発上田合戦と遅参 ▸大津城の戦い ▸京極高次・応ぜず関ヶ原へ転進島左近・先鋒関ヶ原の戦い ▸佐和山城落城小早川秀秋・先鋒大坂城開城三成らの処刑戦後処理と行賞家康は秀頼に暇乞いして大坂を発向。畿内が手薄となり、反家康派に挙兵の好機を与えることになった。会津へ向かう吉継を三成が佐和山城に招き、打倒家康の計画を打ち明けた。諫めた吉継も遂に同心した。細川幽斎が丹後田辺城に籠城して西軍別働隊約1万5千を約2か月拘束。この兵力は本戦に間に合わなかった。三成は佐和山から美濃へ進出して大垣城を拠点化し、東海道を西上する東軍を迎え撃つ態勢を整えた。東軍先鋒の諸将が尾張清須城に集結。江戸を動かぬ家康の真意を測りかねつつ、美濃攻めの態勢を固めた。先鋒の岐阜攻略を確認した家康は本隊約3万を率いて江戸を発ち、東海道を急いで9/14に美濃赤坂へ着陣した。家康の赤坂着陣に動揺した西軍は、杭瀬川の勝利で士気を保ちつつ夜間に大垣城を出て関ヶ原へ移動した。東軍は勢いのまま三成の居城佐和山城を攻略。寝返った小早川秀秋が先鋒を務め、石田一族の多くが自害した。西軍総大将毛利輝元が交渉の末に大坂城西の丸を退去し、家康が入城。西軍の政治的中枢が戦わずして解体した。捕縛された三成は小西行長・安国寺恵瓊とともに京都六条河原で斬られ、西軍首脳の断罪により戦後秩序が示された。毛利は周防・長門2か国へ、上杉は米沢30万石へ大減封。東軍諸将への大加増で徳川主導の大名配置が確立した。

図の記法

  • 命令・攻撃・招請・合流(相手への働きかけ)
  • 移動・出陣・要請(その人物自身の行動)
  • 討死・自害(以降そのライフラインは途切れる)
  • 人物(タップでその人物の系図へ)
  • 軍・勢(部隊単位のライフライン。幟旗つき)
  • 付随する人物と役割(先鋒・討死・静観 など)
  • 詳細 ▸サブ出来事の詳細図へリンク(タップで移動)
陣営
  • 徳川
  • togun
  • seigun
  • uesugi
  • sanada

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